クルト・ワイル (1900-1950)
Kurt Julian Weill
クルト・ユリアン・ヴァイル(Kurt Julian Weill、英語風にカート・ワイルと表記することもある、1900年3月2日 - 1950年4月3日)は、1920年代から生涯にわたって活躍しつづけたドイツの作曲家である。彼は、自身のコンサート用の作品の作曲をしつつ、演劇やオペラ・ミュージカルの作曲へ同等の力を注ぎ、多くの作品を残した。特にベルトルト・ブレヒトが台本に協力した『三文オペラ』で知られる。妻は女優ロッテ・レーニャ。
デッサウにおいてユダヤ人の家系に生まれる。父はハザン。20歳の時にベルリンでフェルッチョ・ブゾーニに師事し、『交響曲第1番』を作曲した。その後グスタフ・マーラー、アルノルト・シェーンベルク、イーゴリ・ストラヴィンスキーの影響を受けた『弦楽四重奏曲』や『ヴァイオリンと管楽のための協奏曲』で成功を収めるが、彼の関心は劇場音楽や声楽へと向いて行った。
1928年に戯曲家ベルトルト・ブレヒトとの共同作業によりオペレッタ『三文オペラ』の音楽を監修したことをきっかけに、1920年代後半より1930年代初頭には彼の劇場音楽や声楽作品が大衆の間で大流行し、アルバン・ベルク、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー、ダリウス・ミヨー、イーゴリ・ストラヴィンスキーからも称賛を受け、一躍有名になる。
しかし、高名なユダヤ人作曲家であったことから、ナチスの当局から危険視されるようになり、後期の作品の発表時には、コンサートの会場でナチ党員によって組織された暴動が何度も起きた。ドイツを離れる以外音楽活動を続ける道がなくなったヴァイルは、1933年にパリへ逃れることを余儀なくされた。この最初の亡命地ではブレヒト台本のバレエ『七つの大罪』を作曲している。1934年には最後の純器楽作品の『交響曲第2番』を完成させ、ブルーノ・ワルターの指揮でニューヨークとアムステルダムで演奏された。
その後1935年にアメリカ合衆国に移住した。アメリカではヨーロッパでのスタイルを捨て、ポピュラー音楽を研究し、数多くのミュージカル作品を残している。市民権を取得した1943年当時、ヴァイルにとって合衆国は夢に見る民主主義のファンタジーランドであった。
1950年、ニューヨークで死去。
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